大学入試の英語民間試験導入が延期されてほっとしている理由

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大学入試にTOEFLやIELTSなどの英語の民間試験が導入されるかもしれない。その話を初めて聞いたときは、わたしはそんなに悪い印象を持っていなかった。わたし自身それらの民間試験を受験して英語力を高め、海外の大学で学んだ経験があるからだ。そういった試験について学生たちがより興味をもって取り組む機会が増えること自体は悪くないと思う。そういう議論が進むことは良いことだ。

しかし、その後のニュースを追っていると、わたしが思っていたよりもずっと早いスピードで民間試験導入の準備が進められていることがわかり不安な気持ちが高まってきた。どういうふうに制度化してくのだろうと思っていたら、あまりにずさんな仕組みになっており、案の定様々なところから問題が指摘されていた。

制度上の問題点については各種報道や、専門家が指摘しているのでそちらを参照してもらいたい。いくつか参考の記事を紹介しておく。

けっきょく2020年度から予定されていた大学入学共通テストにおける民間英語試験の導入は見送りが決まった。見送りの決断があまりに遅いとは思うが無理やり導入することにならずひとまずほっとしている。現状は2024年度に延期ということなので、まだこの問題はなにも解決しておらずこれからもこの民間試験導入の是非について考えていかなければならない。

なによりこの問題で振り回されている高校生たちが気の毒だ。

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教育における経済・地域格差に関する問題

民間試験導入の問題点は数多くあり、すでに様々なところで指摘されているが、なかでも経済格差や地域格差の問題が深刻だと思うのでこの点についてわたしも書いておきたい。

試験費用の1万円や2万円といった金額は子どもにとって非常におおきく感じる金額だ。わたし自身大学生の頃にTOEICやIELTSなどを何度か受験したが、そのたびに試験にかかるお金が非常に重たく感じた。特にイギリスの大学院入学のためにIELTSで高いスコアが必要だったときは、今回の試験で良い点がとれなければまた受験しなければいけないというプレッシャーがあった。受験するのも大変だし、お金もさらにかかると思うと非常に気が重くなった。

後述するが、IELTSの試験には特にスピーキングの試験で運要素がからむところがあった。なので高い点数を獲得するには、何度も受験するのが有利なのは間違いなかった。

受験費用が経済的にも心理的にも大きく負担に感じられる子どもはたくさんいることだろう。受験会場への交通費、場合によっては宿泊費もかかることを考えるとその費用負担はもっと大きい。民間試験導入が貧富の差による教育機会の不平等を助長するのは間違いないだろう。国が定めた制度によって経済的に恵まれない家庭や地方の生徒が不公平を感じるようにしないでほしいと切に願う。

現状として日本も外国も教育の機会は平等ではないのだから、平等を目指す必要はないと主張する人がいる。貧富の差が教育機会の差を生むのは避けようがない現実だという認識だ。萩生田大臣の発言もそれを象徴しているように思う。

しかし、現実として教育の機会を平等にすることが困難だとしても、だからといってそれを目指すことをあきらめて良いわけではない。少なくとも国が教育の不平等をおおっぴらに容認するのは非常にまずい。子どもたちは貧しい家庭に生まれたら教育においても不利だと劣等感を抱くかもしれない。わたしは子どもたちにはもっと大きな希望を抱いてすくすくと育ってもらいたい。

また地方が不利になる試験制度を国が率先して定めたとなれば、子どもの心には「地方に住んでいる人は損をする」と強く刻まれるだろう。こうして不公平を感じた子どもは大人になってから地方に住むことを避けるようになるのではないだろうか。そうなれば地方の過疎化はいっそう進み都市部には過度に人口が集中していくに違いない。そんな未来をあなたは望むだろうか。

少なくとも国にはこれらの格差の問題を少しでも是正する方向を目指してもらいたい。

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現状をよく把握したうえで、どこを目指すか考えるべき

最近の報道ではどうしても制度上の問題点を指摘するものや、最近の大臣の発言に関して言及するものが多くなりがちである。しかし、この民間試験導入の問題を考えるには、そもそもとして英語教育の根幹を考えることが大事だ。ひとまず延期が決まったのだから今一度基本的なところに立ち戻りたいと思う。

現在の英語教育の課題はどこにあるのか。これから日本で育つ子どもたちに英語をどのように学び、どうのような能力を身に着けてもらいたいのか、まずそこから考えないと、なぜ英語試験の改革が必要なのか議論しても意味がないように思う。

民間試験の導入を積極的に進めようとしているひとたちに、わたしはこの疑問を投げかけたい。「英語ができない理由を試験や学校教育のせいにしていないだろうか?」

英語民間試験の導入が検討されるようになった理由

そもそもなぜ民間の試験を導入しようという話になったのか。そこから考えてみよう。

日本人は英語の能力が低いと言われがちである。特に日本人は英語を話すことに苦手意識をもつ人が多い。現状では十分に高められていない英語力を改善する方法を模索しなければならない。そこで着目されたのが試験制度の改革だ。

現状のセンター試験では主にリーディングとリスニングが試験の内容となっている。ライティングについては実際に記述させる問題はなく、語句の並び替え問題など記述に準ずる程度の設問があるのみだ。スピーキングの試験はまったくない。

学校教育はどうしても試験の対策に向けて行われるので、自然とスピーキングを鍛える教育の機会は減ってしまう。なので試験にスピーキングや記述問題を含む民間試験を導入することで学校の教育内容も改善していこうという狙いだ。

またTOEFLやIELTSなどの試験は外国の大学に留学する際に必要となる場合が多いので、そういった試験に早い段階から慣れておくことを促すという狙いもあるかもしれない。

民間試験はそんなに良くできているのか

民間試験導入の理由は上記のようなものだ。しかし、わたしは民間試験が過大評価されているように感じる。隣の芝生が青く見えるように、民間の英語試験に期待しすぎではないだろうか。

特にスピーキングの試験には運要素が多く含まれており、採点の透明性・公平性も疑わしい。例えばわたしがIELTSを受験したときのことを話そう。IELTSでは受験者ひとりひとりに担当の試験官がつく。試験の問題となるトピックはその場でカードを引いて選んだ。

わたしが実際に経験した例でいうと”boat”(船)というお題が出たことがある。「あなたは船を持っていますか」などと尋ねられ、持っていないと答えると「それはなぜですか」と聞かれ話を進めていくことになる。この問題にわたしはとても苦労した。そもそも船を買おうと思ったことすらないのにその話をしなければならない。正直日本語でもいったい何を話せばよいのやら、と戸惑う。必死に、そもそも興味がないし、必要がない、もし買うならお金もかかるし、維持費もかかって大変だろうと話を進めた。しゃべらないとろくな点数をもらえないのは明らかなので必死だった。

いったいこの試験内容でどのようにしてスピーキング能力を測ろうとしているのか、いまいちはっきりしない。これにどう答えれば高い得点がとれたのだろうか。また別の受験の機会のときには「身近な人物について話してください」という問題が出たことがあった。このときは、自分の友人を例に、その人はどんな性格の人で、自分がどこで出会ったのか、その人との関係性など話を広げやすくてスムーズにしゃべることができた。そして実際に高い得点をとることができた。

ほかにもわたしがイギリスで暮らしているときに出会った中国人留学生の話だと、母国で受験したときよりもイギリスで受けたときのほうがスピーキングの採点が甘く感じたと言っていた。IELTSのスピーキングの場合、出題内容や担当試験官によって採点のばらつきがある可能性があるとわたしは思う。どれくらい運の要素がからむのか、わたし個人の経験だけで断言はできないが、公平性という観点で見るとあまり洗練されているとは言いがたい。

どんな問題が出題されるかで難易度が変わったり、担当の試験官によって採点が異なる可能性がある。それはつまり受験の機会が多いほうが高い得点を取りやすいことを意味する。わたしはそれほど民間の試験が内容的に特別素晴らしいとは思わない。採点の公平性の意味でも疑問だし、子どもたちはこのような試験で高い得点をとれるように目指すべきなのだろうか。こういった試験で高い得点をとれる人が本当に我々が目指すところの英語力のある人材なのだろうか。

民間試験導入賛成派の人のなかには、それらの試験の受験経験はおろか、問題を見たこともない人がいるのではないかと心配になる。わたしは大学生の頃にIELTSやTOEFLの勉強をしたが、これらの試験はほとんどの高校生にとっては難易度が高すぎるので、一律で全員が受験する意味はないと思う。一部の英語に熱心に取り組む生徒には良い経験になるかもしれないが、それくらいであれば国が制度として一律に導入する意義はないだろう。

現状のセンター試験と学校の英語教育はそんなに悪いものなのだろうか?

そして現状のセンター試験と学校教育は本当に問題があるのだろうか。センター試験は完璧ではないかもしれないが、実のところそれはさまざまな制度上の問題をクリアするよう作られているものだ。学力を測定し、公平な採点を限られた時間内で行う。現実的な試験制度だ。

民間試験では4技能に区別して採点することが多いが、それらの技能は密接に関係しており独立した能力ではない。必ずしも4つに区分して試験する必要もないと思う。例えば、英文を書くことができれば英語をしゃべることも自然とできるようになる。スピーキングは頭のなかで英作文したものを口に出しているようなものであり、書く力としゃべる力が密接に関係していることは明らかだろう。

そして現状の高校生たちは、もちろんライティングの勉強をしている。学習指導要領にもライティングのことはしっかり重視されており、大学が個別に用意する英語の入試問題でもライティングの問題は一般的だ。英作文の授業がない高校は常識的に考えてないだろう。

またセンター試験はライティングの問題がないと指摘されがちだが、それに準ずる問題は用意されている。実際に文章を書くことはないが、語句の並び替え問題などでそれに準ずる能力を問う設問がある。もちろん実際にいちから生徒に文章を書かせることでより適切に英語能力を測定できる可能性はあるが、センター試験は書く能力を完全に無視しているわけでもない(参考:「大学入学共通テスト 英語民間試験導入を考える」(視点・論点) | 視点・論点 | 解説アーカイブス | NHK 解説委員室)。もし、本当に公平で効率的な採点が実現できるなら大学入学共通テストにも記述式の設問を導入しても良いだろう。

スピーキングの教育・学習は大事だが、試験が必要かどうかは疑わしい

たしかに英語は語学なのだからそれを話す練習をすることはとても大切だ。ぜひ学校教育の場でも実際に英語で会話をしたり、人前で英語で発表するような練習をしてほしい。

しかし、そのしゃべる能力を試験によって評価するのは難しいところがある。特に日本の大学受験において本当に必要かどうかは疑わしい。入試という公平性が非常に重要視されるところにわざわざあいまいな基準の試験を持ち込む必要はあるのだろうか。

そして、もっと現在の英語教育や試験制度に自信を持っても良いはずだ。わたしが通っていた公立高校では英語のオーラルコミュニケーションの授業があったし、英語でスピーチをする練習もした。教科書を音読するということも地味だが何度も繰り返していて良かったと思う。そのおかげで簡単な英会話なら高校卒業の時点でできるようになっていた。

実際わたしが大学1年のときの英語の授業では日本語を禁止して進める授業があったが、生徒はみんな先生の言っていることを理解して、生徒もたどたどしくはありながらも自ら英語をしゃべっていた。わたしが通っていた大学は、どちらかというと学業の成績に優れた人が集まってはいたものの、かといって語学や国際関係を専門とした学部でもなかった。今の日本の英語教育でもきちんと学習をすれば高卒の時点で簡単な英会話はできるようになるのだ。

ちなみに筆者は1989年生まれの、いわゆる「ゆとり世代」である。世代によって受けた英語教育は異なるので、年代によって実感する英語力には差があるかもしれない(ゆとりと馬鹿にされた世代のほうが英語力があるのであれば皮肉な話ではあるが)。

「有名大学卒業でも簡単な英語も話せない」とよく聞くのだがそれは本当なのだろうか。学校で英語で自己紹介するという練習もしたことがないのだろうか。あるいはもしかしたらその人の言う「簡単な英語」のハードルが高すぎるのかもしれない。日本語では自由に表現できることが英語ではできないのはたしかにやるせないので「できない」と言ってしまうかもしれない。もしくは単純に有名大学に通っていただけで英語を熱心に勉強しなかったのではないだろうか。

民間試験を導入せよと言うまえに、まずどうして現状の仕組みがあるのかを考えてもらいたい。そして現状の生徒たちがどの程度の英語力を身に着けているのか知ってもらいたい。わたしはスピーキングの試験を導入する意義を感じない。

改善すべきは試験改革よりもほかにある

そもそも現状認識ができていないのではないか。現在のセンター試験は完璧ではないにせよ実によく考えられて設計された試験制度だ。そして、民間試験だって決して完璧な試験ではない。受験したことがある人ならその採点基準のあいまいさをよくご存じのことだろうと思う。

まじめに熱心に勉強すれば現在の英語教育でも基礎の力は養える。現在の英語教育をきちんと履修すること、それがまず大事なのではないだろうか。やるべきは試験改革よりもそれぞれの学校で生徒がきちんと学習に集中できる環境をつくることだ。いじめの問題の解決も大事だし、教員が安心して働ける環境を整えることも大事だろう。限られた時間のなかでどれだけ効率的に英語の能力を伸ばせるのかを考えていくべきだ。

あるいは英語が得意だったり、特に熱心な生徒を個別に支援する仕組みがあっても良いだろう。例えば夏休みの間に語学留学をしたい学生のために資金援助をするのも良いのではないだろうか。

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英語を習得するのは大変だという現実を踏まえて制度を作るべき

日本人が英語ができないのはある意味しかたがない。日本人にとって英語を学ぶのは難しいのだから。日本語と英語では文法も全く異なるし、文字も違う。習得するには労力だったり、時間が相当かかるものだ。

また日本人はそこまで切迫して英語力を必要としていない。日本はある意味非常に恵まれていて、母国語だけで様々な情報に触れることができる。テレビ番組は日本国内でつくったものだけでも十分な量があるし、書籍もたくさんある。海外で作られたものも日本語に翻訳されて普及している。高度な教育も日本語で受けられる。日本語だけできれば生活できる人が非常に多い。

外国によっては必要に迫られて英語を身に着ける人がいる。英語を理解しなければまともな教育を受けることができないところもある。そうやって嫌でも英語を学ぶ環境があるところと、日本のような環境を比べても仕方がないのだ。英語学習に対するモチベーションが違えばおのずと英語力にも差が出てくる。

「中学・高校6年間勉強しても英語ができるようにならないのはおかしい」と言う人がいるが、その指摘は適切ではない。そもそも6年間といっても6年間毎日英語に触れているわけではない。週に数時間の授業と宿題などにあてる時間があるだけだ。それにいったいどれだけの割合の生徒がその限られた時間を集中して有効活用できているだろうか。

日本人が外国語の英語を習得するには相当な時間が必要だ。一朝一夕では日本人は英語ができるようにはならないのだ。自分が英語がうまく喋れなかったり、英語が聞き取れないことを教育のせいにしてはいけない。根気よく取り組むほかないのだ。

高校では英語の基礎力と、苦手意識の払しょくを目指すべし

私が思うに、日本人の高卒の時点の英語力はほんの基礎で十分だ。その後におのおのが伸ばしたい英語力の素地ができていれば良いのではないだろうか。そしてもう少し自分たちの英語力に自信をもって良いと思う。日本人は英語力が低いと自分たちを過小評価しがちだが、別に外国と比べて特別劣っているわけではない。少なくともまともな統計で日本人の英語力が低いと示されているものはない(英語力の統計については次の記事に詳しい。→「日本の英語力は49位」という朝日新聞の報道について(寺沢拓敬) – 個人 – Yahoo!ニュース)。

非ネイティブの外国の人たちが自信満々で英語をしゃべっている様子を見て、自信を失う日本人がいると聞く。しかし実際のところ外国の人たちも堂々としゃべっているだけでその内容はめちゃくちゃだったりする。日本人に必要なのは英語力よりも自分に自信をもつことかもしれない。苦手だと思い込んでしまってはできるものもできるようになりはしない。

人によって必要な英語力やモチベーションは異なるのだから、高いレベルのトレーニングは高校卒業以降でかまわない。そのほうがずっと効率的だ。例えばスピーキング能力を鍛えるといっても人によって必要な学習は異なる。日常的な英会話を学びたい人、仕事のコミュニケーションで必要なスピーキング能力を鍛えたい人、大学などで自分の研究内容を英語でプレゼンできるようになりたい人。様々なニーズに合わせて学習すればよい。そもそもTOEFLやIELTSは大学教育を英語で受けるための能力を測る試験である。ビジネスやエンターテイメントのために英語力を身に着けたい人にはあまり適切ではない。

また人によっては英語が読めるだけでも大きな意味をもつ。今の時代、ネットで調べ物をするときに英語を読めるだけでも非常に便利で役に立つ。海外からものを購入する場合も英語が読めれば特に問題ない。別に日本人全員が高いスピーキング能力を目指す必要はない。

もしくは喋れなくてもリスニング力があればYouTubeなどの英語コンテンツを享受することができる。今はネットで様々なことを学べる時代で、これに英語力が加わると非常に豊富なコンテンツにアクセスできる。

人によってどういう方向に英語力を向上させるべきかは異なるので、高校までの教育ではまず基礎固めをしっかりしてもらいたい。わたしはスピーキング力にこだわる最近の風潮があまり理解できない。別に流ちょうに英語をしゃべることができればエライわけでもないのだから、そこにこだわる必要はないと思う。英語をしゃべるのは苦手だけど英語を読んだり聞いたりして理解できるのは十分価値があるし素晴らしいことだ。それを卑下する必要はない。「しゃべるのが苦手=英語がまったくできない」ではないのだ。

中学・高校の英語教育では基本的な文法と語彙を身に着けて、ライティングや発音、音読の練習をすればよいのではないだろうか。そしてそれは現状の高校教育で行われているものだと思う。日本の学校教育が完璧ではないだろうが、そこまで悪いものでもない。

英語ができない原因は単純に時間が足りていない、というのがわかりやすい現実だと思う。英語力を向上させるには時間をかけるしかない。もっと勉強しろ、もっと英語に触れる時間を増やせ。当たり前でつまらない現実を伝えてやるのが大人の役割ではなかろうか。そして高校までではどう考えても限界があるのでそれ以降も英語学習を続けるしかない。

試験制度を変えれば英語ができるようになるというのは甘い幻想だろう。民間試験の導入で英語力が向上するなら苦労はしない。今の制度設計を見る限りでは高校生や教育現場に混乱をもたらすだけでたいして成果はないと思う。そもそも民間試験導入による英語力向上の根拠が乏しい。

現実問題として、中学や高校で英語にさける時間は限られているので、あとはその時間をいかに有効活用できるか考えるべきだ。そしてそのためには試験改革などという離れ技ではなく、子どもたちが安心して勉強に集中できる環境をつくっていくほかない。そして子どもたちに自信を持つよう伝えてほしい。あなたたちが頑張って学校で学んで得たものは素晴らしい財産だ。

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